風間深志
Shinji kazama

 

 
1980年にキリマンジャロをバイクで登攀して以後、82年に日本人初となる「パリ・ダカ―ルラリー」参戦。84、85年世界最高峰エベレストに挑み高度6005m の世界高度記録樹立。87年に北極点、92年に南極点にそれぞれ到達するなど、数々の金字塔を打ち立てたバイク冒険家。2004年ダカール・ラリーでの事故により左足に機能障害を負うも、2015年には親子で「BAJA1000」に出場をするなど、そのチャレンジングスピリットはいまだ留まることがない。NPO法人「地球元気村」主宰。1950年生まれ。
 
 

 

「この日本人がスゴいらしい。BRAND NEW JAPAN」

(テレビ東京 2011年11月19日放送)

 

 

 

 
 
 
 
【1982年 パリ・ダカールラリー】
 
82年、世界一過酷なラリーと称された「パリ・ダカールラリー」に日本人として初めて挑戦。ルートを間違え、アフリカ・サハラ砂漠で遭難しかけるも見事に完走する。風間にはチャレンジスピリッツだけではなく、モトクロス競技によって培った技術的な裏付けもあった。
 

 

 

 

 

 
【1984・85年 エベレスト】

 

風間は冒険家として地上にある3つの「極」を目標にした。北極、南極、そしてもうひとつがこのエベレストであった。
 

 

 
84年にまず5800mまで到達すると翌年にはルートを変えて6005mに到達する。使用マシンはホンダのトライアル用バイクを改造したもの。高度を増すほどに薄くなる酸素との闘いだったという。
 

 

 
 
 
【1987年 北極点】
 
気温マイナス40℃〜60℃という過酷な気象条件を走るため特別な素材を用いて特別な設計で作られたスペシャルマシンが用意される。
 

 

 
ヤマハTW200がベースになっているもののエンジンは寒冷地での始動性に優れる2ストロークに換装され、シートやタイヤ、配線類に至るまですべて特別製となっていた。
 

 

 
雪によるスタックと、ときおり表れるリード(氷の亀裂)におびえながら黙々と前進し、風間はスタートから47日目でバイクによる史上唯一の 北極点到達という偉業を成し遂げる。
 
 

【1992年 南極点】
 
南極点への挑戦はただバイクで到達するだけではなく「環境とモーターサイクルの共存」、「南極大陸の恒久的平和利用と南極条約の無期限凍結」を世界にアピールすることも大きなテーマだった。
 

 

 
そのため、相棒のスペシャルマシン「OU70ウィスパーダンサー」は南極の雪原を走るための踏破性に加えて、市販車を遥かに下回る低騒音、低公害も実現されていた。莫大な製作費を投じた作られたマシンだったが、それでも南極大陸の雪原では車輪はいとも簡単に埋まり、クレバスの脅威にもさらされながら進むことになったという。
 

 

 
遠征は北極点への冒険を超える大規模なものとなり、物資はチャーター機によってベースキャンプへと輸送された。ベースキャンプを出発してから28日目、アムンゼン・スコット基地の隊員達に出迎えられながら南極点への到達を果たした。
 

 

 
 
 
 
「バイクで南極に行ってしまった日本人ライダー」

 
文/佐藤旅宇(編集者・ライター)

 

文中敬称略
 

 

「バイクでどこまで行けるのか? バイクで何ができるのか?」
 
 バイクの可能性をひたすらに追求し、北極と南極にまで行ってしまったライダーが日本にいます。その人の名は風間深志(Shinji Kazama)。恐らく世界でも稀な「バイク冒険家」として、これまで数々の偉業を成し遂げてきた人物です。

 

 風間は10代の頃からモトクロスレースに熱中。20代になるとバイク雑誌の編集部に務め、ますますバイク漬けの生活を送ります。編集部員時代は国内外の様々な未舗装路をバイクで旅し、それを記事にしていました。当時は現在のように「遊び」として未舗装路をツーリングすることはあまり定着しておらず、風間はそのパイオニアでもありました。風間はバイクで走ることの本質的な面白さは未知に挑む「冒険」こそあると思っていたのです。

 

 「当時、僕のバイクに対するモチベーションは世界の誰にも負けないと思っていた。バイクの魅力とは何か、バイクで何ができるのか、日頃そんなことばかり考えていた」(風間氏談)

 

 1980年、風間のバイクへの並外れた情熱はあるプロジェクトに結実します。何とアフリカ最高峰、標高5895mのキリマンジャロにバイクで登るという前代未聞の冒険を敢行するのです。二人の仲間と共に行ったこの挑戦は森林限界を超えたところで氷柱群に阻まれ失敗に終わりますが、続く84年、85年に今度は世界最高峰エベレストに挑みます。このエベレストへのアタックではピークは極められずとも高度6005mまで到達し、バイクにおける世界高度記録を達成しています。繰り返しますが、バイクでの登攀です。恐らく今後もこの記録に挑戦しようとする人間は現れることはないでしょう。

 

 そもそもバイクという乗り物は登山をするためには作られていません。頂点を極めるだけなら、バイクなどない方が遥かに合理的です。風間はなぜバイクで登ることにこだわったのか。そこには10代の頃の原体験があったといいます。

 

 「僕の冒険のルーツは、16歳のときに自宅の裏山をバイクで登ったことなんだ。大人をびっくりさせようとしたんだけど、バイクで走るための道なんて整備されてないからとにかく大変だった。マシンで走ることはほとんどできず、約6時間かけてひたすら頂上まで押したよ。でも苦労した分、頂上から見る景色にとても感動してね。標高約500mの小さな山なんだけど心の中にはまるで地平線の彼方にいるような風景が広がっていた。バイクという武器を手にして大自然に挑み、それをやりとげたときの達成感、感動、それが忘れらなくてね」

 

 風間はその人生最初の冒険以来、「地平線」というものに強く惹かれたと語ります。小さな島国に暮らす我々日本人ライダーは少なからず地平線に憧れを持つものですが、風間は地平線のさらにその先、これ以上進むことのできない極限の地を目指してバイクを走らせることに人生を捧げようと思ったのです。一見、地平線とは無関係に思えるキリマンジャロやエベレストも風間にとっては垂直方向に伸びる地平線への冒険だったといいます。

 

 

 87年と92年、風間は文字通り極限の地、北極点と南極点に挑みます。

 

北極ではマイナス40〜50℃にも達する気象条件のためにヤマハTW200をベースにした極寒冷地仕様のマシンを用意。氷に埋もれたバイクを引き出しては進むことを1日数百回も繰り返し、スタートから44日目に北極点に到達します。もちろんバイクでの到達は史上初めてのことでした。
 
 続く南極への冒険はさらに困難を極めます。使用したマシンはこの冒険のためにゼロから開発・製造されたスペシャルマシン。環境に負荷を与えることなく極寒冷地を走るようされた設計されたこのマシンは開発だけで1年以上の歳月がかかっており、最終的な製作費は1億円以上にものぼりました。
 
 極寒大陸をいつ現れるかも分からないクレバスにおびえながら極点を目指すものの、氷雪にタイヤをとられ、1日でたったの2qしか進めないこともあったといいます。南極点に到達したのはベースキャンプを出発してから28日目のこと。アムンゼン・スコット基地で暮らす100名以上の隊員の出迎えを受け、人生最大の冒険を成功させたのです。

 

 「世界の『地平線』を極めたいというのが僕の冒険家としてのテーマ。だからこのふたつの極点を極めることは自分の冒険のゴールだと思っていた。でもね、そこに立ってもやっぱり終わりはなかった。次は月面から地球を俯瞰したい、その次は太陽系の外から、その次は……キリがないんだよね(笑) 

 

 でもそういった過酷な状況に身を置いたことで物事の本質に触れることができたと思ってる。例えばマイナス40℃以下ではオイルだってドロドロのグリスのようになってしまうし、合成ゴムのタイヤだって石のように固くなる。でもそんな環境でも人間の皮膚や髪の毛は機能を失わなかったんだよね。なぜなら人類は氷河期を生き抜いてきたから。それを実際に体験することで「自然」にあるものこそ究極のカタチなんだと知ることができた。バイクに限らず、科学でも芸術でも、知見を深め、その真髄を掴もうとするなら何がしかの冒険が必要になるんじゃないかな」

 

 2004年、風間は22年ぶりに出場した『ダカールラリー』で大きな事故にあい、左足に機能障害が残るほどの怪我を負いました。しかし、風間のバイクへの身を焦がすような情熱はいまも変わっていません。2017年のダカールラリーには息子である晋之介が参戦。風間もそのサポートとして現地に赴く予定だといいます。